はじめてブログを書きます。僕は「日本一のエンターティナーになりたい」、「とにかく面白くなりたい」と常々思っている。表現方法は宣言しません。だからとても抽象的な夢です。そこはほっといてほしいです。とにかくそんな僕が勉強したことを書いていくドリームエンタメブログにしていきます。
風姿花伝を手に取って
最初のテーマは「風姿花伝」。室町時代の能役者、世阿弥の書です。
オードリーのオールナイトニッポンで若林さんが南原さんに勧められたと話されていて興味を持ちました。ラッパーのZeebraさんは「ジブラの日本語ラップメソッド」で「ヒップホッパーなら時代をさかのぼってちゃんと勉強しましょうね」と言ってます。ついでに睡眠は6時間で抑えようとも言ってます。
世阿弥はほぼ日本最古のエンターティナー・・・・
読まないという選択肢はありません。そして何より「この前、風姿花伝読んだんだけどー」と格好つけて言ってみたい。なのでこの場をお借りして言わせていただきます。
この前、世阿弥の風姿花伝読んだんだけどー。
風姿花伝は面白いものを作るための書である
実際に読んだのは
・すらすら読める風姿花伝 著:林望 (講談社α文庫)
・NHK 100分de名著ブックス 世阿弥 風姿花伝 著:土屋恵一郎 (NHK出版)
帯にはそれぞれ
・この古典は「人生論」でもある! (すらすら読める風姿花伝)
・この本が現代にみごとに呼び戻せた世阿弥は競争社会を存分に生き抜く知恵を教える芸術経営学のイノベーターである
(NHK 100分de名著ブックス 世阿弥 風姿花伝)
とあります。
最初は
人生とかビジネスとかもうどうでもいいです。AKBでもジャニーズでもワンピースでもなんでも人生やビジネスに絡めて本にするのもううんざりっす。僕はZeebraさんに言われて読みたいと思ってるだけなんで!!!
と怒ってしまったのですが、実際に読んでみると帯に「人生」とか書くことに納得してしまいました。
風姿花伝は ただの能の書物じゃないのです。面白い能をするための書だったのです。
風姿花伝にあらわれた面白いものを突き詰めていく世阿弥の姿勢がビジネスとか人生を語りたがる人にこんな帯を書かせてしまったのだと思いました。
世阿弥とは?
風姿花伝の内容に入りたいのですが、その前に世阿弥ってどんな人かまとめます。
・1363年~1443年
・室町初期に活躍した能役者
・50作以上の能を書いた能作者
・父は観阿弥
・7歳で能役者デビュー。
・少年時代は足利義満の寵愛を受けた。
・22歳で観阿弥がなくなり、大和猿楽の一派 結埼座の棟梁になる
・37歳で「風姿花伝」を執筆開始。
・70代で佐渡島に流される。
わかりやすく言うと
神木隆之介さんが、これから映画を50作撮って、芝居論を語りだし、実は昔、小泉元総理の寵愛を受けていて、70代で佐渡島に流されるみたいな感じです。神木隆之介さんの時点ですごいので世阿弥のすごさが存分にわかると思います。
風姿花伝とは?
そんな世阿弥が能役者としての心得を一族の秘伝として残したものが風姿花伝です。
全7巻はこんな感じ
- 年来稽古条々…各年代でやっとくべきこと、ぶつかる壁が述べられている
- 物学条々…女や老人などの演技(写実)の仕方が各対象ごとに述べられている
- 問答条々…Q&A形式。会場の空気の読み方、序破急とは、得意不得意について
- 神儀云…能の神秘的な出自来歴について述べられている
- 奥儀云…面白い能役者になるための心構えが述べられている
- 花修云…面白くするための演技論と作劇論が述べられている
- 別紙口云…そもそも面白いってどういうことか述べられている
これだけ見ても1と5は人生論に近い感じがプンプンすると思います。だから帯にある通りなんです。
僕は6と7が面白かったので少しお伝えしたいと思います。
演じる対象を適切に写実したらすごい演技はできる
一、能に、強き・幽玄・弱き・麁き(あらき)を知ること、おほかたは見えたることなれば、たやすきやうなれども、真実これを知らぬによりて弱く、麁き為手多し。
6の始まりでは、
能には、強き・幽玄・弱き・麁きがある。みんなわかっているつもりでいるけど、実際はわかってない人が多いから「弱き」や「麁き」な役者が多んだと世阿弥は嘆いています。
ここで抑えておきたいのは「幽玄」という言葉。
優美な感じのことです。誉め言葉。幽玄であるかが能のいい悪いのポイントになります。
弱き、麁きはよい意味ではないということもわかります。
そのあとにそれぞれの状態について述べられます
弱き…強く演じるものを幽玄にしようとしてなる or 幽玄に演じるべきものを幽玄にしすぎるとなる。
麁き…幽玄に演じるべきものを強くしようとするとなる or 強く演じるべきものを強くしすぎるとなる
例えば「武士」は普通に考えると強く演じるべきものです。なのに幽玄な感じを出したくなって「武士」を幽玄に演じると幽玄どころか弱くなってよくない。
だから演じる前にその対象が強い派か幽玄派か判断しましょうということです。
だけど、強くするか、幽玄にするか判断間違うことある?って話です。
能は知らないけど現代のドラマだったらある気がします
こんなときはどうでしょうか?
刑事ドラマの取り調べ。
女刑事が犯人の取り調べをする。口を割らない犯人に詰め寄るシーン。
女刑事を演じる場合、シーンの迫力を出すためにも「強く」演じたくなります。
でも、「強く」演じると女刑事が「麁き」になってしまいやすい。
女の人が演じる場合は「強く」演じても問題は起きないと思うのですが、
男が「強く」演じると女刑事に見えなくなる場合だってあります。
(男が女を演じることになるのが能)
だから演じる対象によって「強き」と「幽玄」の軸でどう演じることが適切か考えようって言ってるのです。
言われてみれば当たり前だけど演技の基本を室町時代からまとめていてすごいと思いました。
しかも、そのあとに
「流行に応じて実際の写実とは変えることもしてね」と補足までしてくるから恐れ入ります。
世阿弥は面白い優先なんです。
作者は幽玄な登場人物と言葉を意識して作れ
この工夫をもて、作者また心得べきことあり。
いかにも申楽の本木には、幽玄ならん人体、まして心・言葉をやさしからんを、たしなみて書くべし。
「強き」と「幽玄」の演技論を踏まえたら、能を作るときに心得ておくことも決まってきます。
能は幽玄な雰囲気を作りたいから、幽玄に演じるべき対象を描けばよいのです。
また、演じる対象は役だけでなく、言葉の響きも含まれると続きます。
例えば
「靡く」「伏す」「返る」「寄る」といった言葉は響きが柔らかいからその所作も優美になる。
「落つる」「崩るる」「破るる」「転ぶ」は響きが強いから所作も強くなる。
このように言葉の響きによって所作が幽玄か強いかが変わります。
だから、能を作劇するときは
- 「強き」が欲しいときは強い響きの言葉や強く演じる役を使う
- 「幽玄」をが欲しいときはやわらかい響きの言葉や幽玄に演じる役を使う
これらを意識して「強き」と「幽玄」をうまく構成しなさいと述べられています。
「強き」と「幽玄」の相反する2つの要素から作品を作る
現代のエンターティメントでも使える考え方ではないでしょうか?
~続く